私が農業をはじめるまで 第1回 野菜へのめざめ
(以下は閉鎖された「みんなの挑戦日記」というブログで連載していたものを転記したものです)
今の私のうまいもん好きは学生だった福岡在住時代が大きく影響していると思う。ラーメン、モツ鍋、モツ焼き、水炊きと、いわゆる名物料理のレベルが高いのはみなさんご存知の通りだろうが、スーパーに売ってる魚介類のレベルもとても高い。特にお刺身レベルはとても高く、あじやぶり、生さば(酢でシメない)などの青魚と生牡蠣とサザエがまぐろスペースを狭くしているさまは関東のスーパーにもぜひ見習っていただきたい愛すべき光景である。
加えて学生時代のバイト先がブルーノートという世界的に有名な高級ジャズライブハウスだったため、フランス料理が身近で、佐賀牛やシャラン鴨、フォアグラ、オマール海老といった高級食材に触れる機会が学生のくせに多かった。暇な時は世界の料理という分厚い本を開いてシェフと雑談をし、好きなアーティストの時は客席へ出ていき「やっぱ、リチャード・ボナが一番だね」などと同僚とのたまうおおらかな日々。
こうした日々が今のうまいもん好きの基礎を作ったのだと思う。それに加えて次に住んだ金沢も魚介やら蟹やらうまいもん満載。休日や飲みに行く時などは、次はどこ行って魚食べようか?次はどこで肉食べようか?そんなことばかり考えていた。
そう、学生時代からずっと、うまいもんといえば肉か魚だったのだ。この店に行くまでは。
忘れもしない社会人1年目の2005年冬、会社の同期で親友、農業にやたら詳しい上垣くん(彼は私がドロップアウトするずっと前に会社を辞めてライターをしている)が「友達が来るから一緒に行かないか」とフランス料理のお店に誘ってくれた。のちに親しくさせていただく室矢シェフが腕を振るっていたお店ル・クリマである(室矢シェフが離れてからはフレンチではなくなったようなのでご注意を)。テーブルに着くなり上垣くんがひとこと。
「今日は野菜だけのディナーっていうのを用意してもらったから」
「え?えぇ!?」
まず、この時点で意味がわからない。フレンチといえばほら、前菜、スープときて、魚、肉のメイン料理が1皿ずつというのが定石じゃない。それが魚も肉もないってどういうこと?そんなのおいしいの?
しばらくすると、出てくる出てくる知らない野菜の数々。
ビーツ、根セロリ、紅芯大根、黒大根、リーキ(ほかにもいっぱいあったが覚えきれず)
10品近くひとつの野菜をフィーチャーした渾身の料理が出てきた。
「なにこれ?」「野菜なの?」「こんないっぱい種類あるの?」「大根ってこんな味するの?」
もう疑問の応酬。未知との遭遇。ワンダーランド。
このワンダーランドから私の野菜人生が始まったのである。
私が農業をはじめるまで 第2回 農家のおばちゃんとの出会い
(以下は閉鎖された「みんなの挑戦日記」で連載していたものを転記したものです)
中野さん:「ほれ!(手渡す)」
私:「え、あ、大根ですか?」
中野さん:「ほれ。そのまま食べてみぃ。」
私:「こ、このまんまですか?洗っただけのように見えるけど。皮もついてるし。。。」
中野さん:「ほれほれ。」
私:「はい。。。(若干の抵抗がありつつも勇気を出して)・・・カシュッ」
私:「・・・・・・(もぐもぐ)」
私:「はぁぁぁぁぁぁぁ????」
中野さん:「(ニカッ)」
その大根は大根の香りがほのかにする梨だった。その感動といったら・・・一生忘れられない。
──
会社の同僚の農業に詳しい上垣くんに室矢シェフのル・クリマ(もう室矢シェフは退職されています)を紹介してもらってからすっかり野菜の世界の奥深さに魅了された私だったが、上垣くんには室矢シェフの他にもう一人、野菜バカという称号がふさわしいオーミリュードゥラヴィの澤田シェフも紹介してもらった。金沢は加賀野菜で有名な土地だからか野菜を前面に出したお店も結構あるのだが、このお二人は野菜の話を何時間でもし続けられる別格な野菜バカである。好奇心だけは旺盛な私はおいしい料理とおもしろい野菜の話が聞きたくてこの両店にひと月に1度は顔を出すようにしていた。結構な頻度だったと思うのだがこのお二人はいつも驚きを与えてくれる稀有な料理人であった。
ちなみに私は飲食に限らず学生時代から好きなお店は「通う派」なのだが、これは決してお店のためではなく私のためである。好きなお店につぶれられてしまっては自分の生活に多大な影響を与えるのでそうならないように防御しているのだ。ささやかながら、ではあるが。
この2店を紹介してくれた上垣くんは3つも年下な元会社の同期なのだが(私は1浪の院卒・・・)、私をはるかに超えるフットワークの軽さの持ち主でなぜか内定者時代からとても気があった。そのフットワークの軽さは私が会社から帰宅すると私の同居人と一緒のタイミングで「おかえり〜」という声が家の中から聞こえてくるほどである。そんな彼にどうしてこんなおもしろいお店を知ったのかと尋ねると、知り合いになった農家のおばちゃんがいてその畑で出会ったんだという。(「知り合いになった」という部分にもこのひとことで済ますには惜しい話があるのだがそれは長くなるので割愛)
詳しく聞くと、なんでもそのおばちゃんは松任という金沢市の隣町でレストランにしか卸していない珍しい野菜を作っている農家で、シェフが自ら畑まで野菜を取りに来るのだという。おばちゃんがひとりで珍しい野菜を作っているというのだけでも驚きなのだが、ブルーノートでのアルバイト時代に発注はもっぱら八百屋を使っていたのを見ていた私からすると、シェフが自ら農家のところまで野菜を取りに行くというのも驚きだ。
フランス修行時代があった室矢シェフにも畑の話を聞くと「なんでこんなところにフランスが・・・?」と思うほどの衝撃だったと眼を輝かせる。生まれてこのかた25年、畑というところに行ったことのない私からするとほんとにそんなおもしろいところなのか半信半疑だ。だが、上垣くんや野菜バカなシェフ2人が眼を輝かせるのだからきっとおもしろいところなんだろうなと上垣くんに「つれてって〜」とおねだりすると、持ち前のフットワークの軽さと甘いマスクであっという間におばちゃんと仲良くなっていた上垣くんのおかげで割りとすぐに畑にお邪魔することができた。
車を畑に横付けしてさっそうと歩く上垣くんの後ろをおそるおそる歩く私。「長靴持っていかないと何しに来たって怒られるよ」と澤田シェフから脅されていたのもあったし、珍しい野菜を作るくらいだから頑固な感じの人なんだろうなという勝手なイメージもあって緊張しながら歩いていると、突然トラクターに乗ったおばちゃんが曲がり角から出てきた。
「おーう、きたか〜」
トラクターはおじいさんとセットという大変勝手なイメージを持っていた私にとって、右手をあげながらトラクターとともに出てきたおばちゃんはそれはもうかっこよかった。
とりあえずはじめましてと言おうとトラクターを降りたおばちゃんに近づくと、おばちゃんは私の挨拶などおかまいなく「ほれ!」といってスーパーでもよく見る青首大根を目の前に差し出した。
ここからが冒頭の驚きの会話である。
食べてみると形は良く知った大根なのに全く知らない大根とは思えない味がするのだ。
「土なんやわ〜」
豪快に笑顔で言い放つこの方こそ、北陸が誇る野菜農家中野禧代美さんだった。
しかし、これが私の人生を変える出会いになるとはこのときは知る由もなかった。
私が農業をはじめるまで 第3回 市民農園の開始
(以下は閉鎖された「みんなの挑戦日記」で連載していたものを転記したものです)
ある初夏の朝のこと
AM 5:00
朝日が寝室のカーテンを照らしはじめるころその明るさとともに自然に目を覚ますとまず魔法瓶付きのコーヒーメーカーに4杯分のコーヒーをセットする。歯を磨き顔を洗い服を着替えるとちょうどコーヒーが落ちきるころ。
AM 5:30
コーヒーを1杯飲んで茶色い財布と赤い皮でできたキーケースを持って家を出る。がらがらの国道8号線、白山という真っ白な山から出てくるすばらしい朝日に「おはよう!」と声をかけながら畑に向かって走る。
AM 5:45
畑に到着。近隣の農家さんに挨拶をしながら長靴にはきかえて作業開始。真っ赤に実った完熟トマトをかじりながらトマトの脇芽を欠いたりナスを誘引したり。今日の朝食は・・・と考えているとスティックセニョールがちょうどとりごろ。ポキポキ茎を折って収穫する。
AM 7:00
アラームがなると畑に後ろ髪をひかれながら車に乗り込む。帰り途中にある朝7時開店のパン屋ジョアン本店に立ち寄り今日の朝ごはんと昼ごはんを買う。土の香りと焼きたてパンの香りが車いっぱいに。。。その香りに癒されるとちょうど小中学生の登校支援でそこら中にいる警察官にも笑顔で対応できる。
AM 7:30
パンとスティックセニョールを持って帰宅。採りたてのスティックセニョールを軽く洗うと魔法瓶から残りのコーヒーを取り出して朝食タイム。NHKのニュースを見ながら焼きたてパンと採りたてのスティックセニョールを味わう至福の朝食。
AM 8:15
朝の連続テレビ小説を見たら再び車に乗り込み、すっかり車が多くなった国道8号線を畑とは反対方向の会社へ向かう。
AM 8:45
朝の畑仕事で少し運動をしたからか出社もとてもすがすがしい。パソコンの電源を入れてグーグルリーダーの巡回を終えると、さて、業務開始。
・・・と、こんなロハス雑誌に出てくるような、お前自分に酔ってるだろ!と突っ込みたくなるような生活が続くわけ・・・・・・・・・・あったのだ。
──
レストラン向けにとんでもない野菜をつくる農家、中野さんと知り合って野菜のおもしろさをまた一つ深めた私だったが、このときは「ただの好奇心旺盛なおいしいもの好きが畑に行って全く知らないおいしいものを食べて感動した」に過ぎず、特に畑をやろうと思ったわけではなかった。この頃、ほぼ毎日読んでいるほぼ日刊イトイ新聞で紹介されていた「永田農法」というプランターでもできる(らしい)野菜づくりに挑戦するも、全くおいしい物ができず、植えた野菜がアブラムシだらけになったのもあって野菜を作ることには嫌気がさしていたころだった。
しかし、人好きな私は私の全く知らない世界を持っている中野さんとなんとか親しくなりたかった。だが、中野さんのところにお伺いするにも、始業と終業の時間と休日が一応は決まっている会社員と違って農家さんはいつが暇になるのかよくわからないし、農家は忙しいという先入観もあってなかなか電話できるものでもない。親しくなりたいしいろいろ話を聞きたいのだが気軽に遊びに行くにはまだ関係が浅い、そんな感じで1年経ってしまっていた。
そんな中野さんとの関係を変えるきっかけは新聞広告だった。会社の昼休みに新聞の広告欄に市民農園募集中という金沢市の広告を見つけたのだ。このころ、昼休みは仲のいい同期4人で石川県で昨日あった出来事をもれなくカラーで伝えてくれる「北國新聞」という石川県で最もポピュラーな新聞の広告欄を研究するのが習慣になっていた。最近の新聞の広告欄は高齢化にあわせているようで、「遺書の書き方セミナー」「間違えないお墓の選び方」「あなたももう漏らさない!」「月刊 安心」などといった私達世代では全く関心を持てないがある意味新鮮な広告が並んでいて、高齢者の暮らしを邪推するのに十分な内容でなかなかおもしろい。ケラケラ笑いながら広告欄を見ていると市民農園募集中という広告が目に飛び込んできた。
「おっ」と思って内容を見ると、30㎡で年間使用料が4000円だという。「安い!!」と思うのと同時に「これだ!!」と直感した。市民農園をやることで中野さんのところに行くきっかけができる!と思ったのだ。日々野菜のおもしろさを訴えていた私に同期のみんなも「やりなよ!」とすすめてくれていたが、市民農園をはじめた本当の動機は、おいしい野菜を作りたいというよりも中野さんと親しくなりたいという野菜づくりとは離れた動機だった。
いや、それはだって、農園といえば朝が早いでしょう?いつも帰りが遅くなるソフトウェアエンジニア業で、かつ、小学生のころから深夜のテレビ番組に詳しい夜型を通してきた私が市民農園を続けるなんて無理に決まっていたからだ。週末の休日にちょっと行くのが精一杯。休日だってイベンター仕事がある。とても続けられるとは思えない。しかし、中野さんに電話するには「市民農園をはじめるんですけど教えてくれませんか?」という理由はパーフェクトである。
妻への相談もそこそこにさっそく市民農園に申し込むと案外簡単に割り当てが決定。そして上垣くんに中野さんの電話番号を聞いて意を決して電話をかけた。
「トゥルルル、トゥルルル」
「もしもし?」
「(で、でた!)あの、上垣くんの友人の栗田と申しますが、一度お伺いさせてもらったことがありまして・・・」
「あぁあぁ、どうもこんにちは」
「実は市民農園というのにあたりまして、、、その、あの、、、もしよければ教えていただけないかと思いまして」
「おお、えぇよぅ〜。〇〇日においでよ」
「え、そんなあっさり???」と思うくらい中野さんはあっさりと訪問をゆるしてくれた。緊張して電話したのだが拍子抜けだ。今思えばこの電話での拍子抜けで積極的にいろんなことを聞けるようになったのかもしれない。訪問した日はじっくりと半日くらいかけていろんな作物の育て方を教えてもらい、中野さんが使っている肥料などの資材まで分けていただいた。後日苗も余ったからとトマトやなすの苗も頂いてしまい、、、。
こんな感じで連絡をとるようになると、わからないことは中野さんに聞くというホットラインができ、中野さんの器のデカさも重なって当初の思惑どおりだんだんと親しくなることができた。畑のとなりにある納屋「キャロット」で頻繁に行われる喫茶中野(と称されるシェフやご近所さんとのお茶会)にはしょっちゅう行かせていただいたし、野菜を卸しているレストランでお食事をご一緒させていただいたりと・・・。市民農園を始めたかいは十二分にあった。
これで当初の目的は果たしたはずだったのだが、ひとつ考えもしなかった自分の変化があったのだ。
それは夜型から朝型になるという自分の生活スタイルの変化だ。
朝、畑に行くのが楽しみになっていったのである。トマトが徐々に大きくなっていく、とうもろこしができていく。全く知らなかった成長過程。全く知らなかった朝の風景。そして、全く知らなかった畑でかじったときのあのうまさ。
最初は無理やり朝5時に起きていたのがひと月もすると自然に5時に起きるようになる。もう、畑に行きたくてしょうがなくなる。明日は畑でやりたい事多いから会社は午前休みにしようかなぁ、などと不謹慎なことまでも考えるようになり生活の中心が畑になっていった。
中野さんと親しくなりたいと始めた畑生活は、始めるとすぐに自分の生活に欠かせないものになっていったのだった。
中野さんの愛犬吾郎の視線の先には茹でられたスティックセニョールの山が。野菜に目がない犬がいたのも中野さんちならではですね。
私が農業をはじめるまで 第4回 キャリアチェンジの決意
(以下は閉鎖された「みんなの挑戦日記」で連載していたものを転記したものです)
私:「もしもし、エコファームアサノさんの窓口はこちらでよろしいのでしょうか?」
GOENさん:「はい、そうです。」
私:「あのぉ、つかぬことをお伺いしますが農業研修というのは受け入れていらっしゃらないでしょうか?」
GOENさん「え、いや、どうなんでしょう。今は研修生というのはいないのですが。とりあえず一度いらっしゃって浅野とお話していただいたほうがいいのではないですか?」
私:「え、行ってもいいんですか?」
未来の扉が開いたと思った。体が小刻みに震えていた。
──
早朝に家庭菜園に行ってから出社する生活はもう1年も続いていた。夜型人間だった私の朝型生活がこうも続くと自分の天職というものについて考えるようになった。
このころ会社では、自分が入社した理由でもある事業をたたむことになり、やりたいことがない宙ぶらりんな状態になってしまっていた。宙ぶらりんな状態では仕事に身が入らず、ブログやニュースサイトをめぐってばかりいた。
そのなかでもよく読んでいた以下の4つのブログには強く影響を受けた。
・Life is Beautiful
・住みたいところに住めるおれ
・池田信夫ブログ
・山本直人ブログ
どれもキャリアの築き方や働き方についての記事が多く(特に上の2つはソフトウェアエンジニアなら必ず読むべき)多くのことを教えてもらったが、最も意識するようになったのは自分の天職についてだ。
はたから見ると大変そうに見えることでも本人は別に大変ではない、それが天職だ。とはLife is Beautifulの
中島さんの言葉だが、これは1年以上続いている自分の早朝家庭菜園とおもいっきりかぶっていた。いろんな人からよくそんなこと出来るねと言われていたが、やっている本人は全く苦痛でなく毎日それが楽しみだった。
加えて強く影響を受けたのが山本直人さんのブログの「見切りとがんばり」だった。このころ、ソフトウェアエンジニアとして必要な好奇心と能力について自分よりも数段優秀な後輩と仕事をする機会があり、エンジニアとしての適性に限界を感じていたところだった。嫌いではないのだが寝食を忘れるほど好きではないのだ。そんな私とコピーライターとしての能力・適性に見切りをつけて元々好きだった分析の分野でがんばることにした山本直人さんは山本さんの当時30歳という年齢もそうだが全くかぶっていた。
自分の天職とはなんなのか、もう答えは出ているのではないか・・・。
また、農業に関してははっきりとやりたい事業があった。それはレストラン向けに作られている野菜を家庭でも食べれるようにすることだ。中野さんのところにいって野菜をまるかじりしていると、なぜこれを家で毎日食べれないのかと不思議に思うのだ。まるかじりでおいしいのだから料理が簡単でいいということ。この野菜は家庭にこそ広まるべきだ!勝手にそう思っていた。
そんなことを思いながら悶々としていた9月のある日、父から、ずっと人に貸していた実家が空くことになった、転勤先から戻るまでの2年くらいはもう人に貸すことはないという連絡があった。
もう直感した。
ここだ!おそらくここしかない!
ここを逃すとキャリアを変えるチャンスはもうない!
父との電話が終わるとそのままMacに向かい実家がある千葉県のおもしろい農家さんを検索する。すると、なんと中野さんと同じようにレストラン向けにやっている農家さんで日本で最先端を行っている方が実家から車で通える距離にいるではないか。シェフズガーデン エコファームアサノというらしい。・・・その農場主の浅野さんの風貌はだいぶインパクトがあり仙人のようだが、情熱大陸などにも出たことがあるらしい。
そんなすごい人が通える距離にいるなんて!もうここしかないでしょう!(注 エコファームアサノが研修を受け付けている保証はない)と、はやる気持ちを抑えて妻に相談した。一応私も常識人であったようで、興奮しながらも妻に相談するという選択肢が頭にあったようだ。
私「実家に帰って農業研修をするっていう選択もあると思うんだけどどう思う?」
妻「やるなら早くしてくれない?」
同じ変わった大学出身の妻は、安定した上場企業の会社員からたぶん数年は無収入になるかもしれない農業への転身にも関わらず、即答だった(笑)。2秒後、エコファームアサノの窓口というGOENという会社に電話。エコファームアサノの浅野悦男さんをなかば押しかけで訪ねることになった。
2010年9月のことである。
私が農業をはじめるまで 第5回 エコファームアサノでの面談
(以下は閉鎖された「みんなの挑戦日記」で連載していたものを転記したものです)
2010年9月の暑い日
浅野さん:「今までやってきたIT技術を活かして君はIT農業をすればいいんだ」
私:「当然Webは使っていこうと思ってます・・・。(いや、ここで研修させて欲しいんです)」
浅野さん:「食べるのも農業なんだから別に農業やるのに仕事を辞める必要はないんだ」
私:「確かに食べるのも農業ですけども。。。(仕事辞めないとここに来れないじゃないですか!)」
なかなか研修の話にいかない事態の打開に私の頭はフル稼働していた。
──
2010年9月、エコファームアサノに研修希望の電話をしたところ、とりあえず一度来てみてはというお話をいただいた。9月・・・といえば3連休に毎年照明班で参加しているバンバンバザール主催の音楽イベント「勝手にウッドストック」が相模湖である。相模湖からその足で千葉まで行ってしまえば金沢からの交通費も浮きそうだ。
勝手にウッドストック終了後に相模湖駅前の大衆食堂「かどや」で行われる「かどや打ち上げ」に参加してその日は八王子にでも泊り、妹の住んでいる幕張経由でエコファームアサノに向かうという旅程を立てた。
ちなみにこの「かどや打ち上げ」はイベント運営で疲労困憊、またはその日中の要機材返却などの理由で機材をトラックに積込み直後、先に帰られるバンバンバザールのみなさんを相模湖湖畔の急な坂道で見送ったあと、残ったスタッフやアーティストにより催される主催者のいない変わった打ち上げで、14時くらいから終電まで延々と繰り広げられる稀有な打ち上げだ。主催者のいない打ち上げが開催されるところまでまさに「勝手に」なこのイベント、とても素敵なアーティストがたくさん出るし独特のゆるい空気がとても心地良いのでぜひ一度は参加してみてください。
たっぷりイベントを楽しんだあとのそんな裏のお楽しみでうきうきすべき最終日、だったのだが、起きてからずっと寒気がする。周りはみんな半袖なのだがなぜか私だけどんどん寒くなっていく。イベントを楽しみながらもそのあとに押し寄せる人生の岐路になるだろう面談が気にかかっていたのだろうか。いつもなら「な~にかどやが吹き飛ばして・・・」などとのたまうところだが、さすがに風邪を引いた状態でそんな岐路に立ち向かうのは分が悪い。なによりあの仙人のような風貌。「準備がなっとらん!!」と木刀をふりかざし門前払いをくってしまうかもしれない(注 このときはまだ会ってないのであくまでイメージです)。この日は八王子にとったホテルでおとなしく寝こむことにした。
すると、かどやを諦めたのが功を奏したのか翌日には回復。約10年ぶりくらいに故郷の千葉へ向かった。途中の東京都江戸川区にある先祖のお墓にこれまた数年ぶりのお墓参りをし、数年ぶりに来たくせに厚かましくもご先祖様にお力添えをねだる。
いや、こう書きながら振り返ってみても必死だったと思う。前回にも書いたようにここしかない!という感触があった。もし浅野さんに受け入れてもらえなければ農業へのキャリアチェンジはできないかもしれない。
10年ぶりくらいに見る故郷四街道市を横目にエコファームアサノのある隣町の八街市へ。八街市というのは落花生で有名なところなのだが千葉にいた頃もほとんどいったことがなくどんなところなのか全くわからなかったのだが、想像以上の畑地帯。どこもかしこも似たような風景なのでナビがない平成9年式のラシーンでは簡単に迷ってしまう。初対面でのまさかの遅刻とでもなればやはり木刀をふりかざされ・・・とかなり焦って運転していたのだが、運良くでかいサンタの置物がある農家が目に入り「あれはなんだ?」と近づいてみるとエコファームアサノという看板がありなんとか辿り着くことができた。
この日は人生で最も緊張した。自分のライブ、高校時代からの憧れだったインコグニートのドラマーリチャードベイリーとの対面、就職面接、会社での数々のプレゼン、妻の両親との初対面など、緊張すべきときはさまざまあったが、この図太い性格を緊張させるものはあまりなかった。ところがこの日は車を降りたもののなかなか足が前に出ないのだ。遠足気分で一緒に来た妻がルンルンで歩くのを後ろからついていくという情けない構図で中に入っていくと浅野さんとGOENの今村さんがいらっしゃり、テストキッチンと呼ばれるキッチンがある納屋に通された。
一応、面接だと思って履歴書と職務経歴書をお渡しし志望動機などを話そうとしたのだが、書類はいとも簡単にはしっこに置かれてしまい浅野さんのマシンガントークがはじまった。農業、政治、世界情勢、またたくまにいろんなところに話が飛んでいく。そして、この浅野さん、こちらを見る目が尋常ではない。鋭い眼光でこちらをじっと見つめながら話すのだ。これはただごとではない、目をそらしたら負けだとこちらも負けずと応戦する。
正直な話、このとき何を話したのかはあまり覚えていない。というのも、しゃべりながら浅野さんから出てきた冒頭の「今までやってきたIT技術を活かして君はIT農業をすればいいんだ」「食べるのも農業なんだから別に農業やるのに仕事を辞める必要はないんだ」という言葉に、「これは受け入れてもらえないってことか?このままではやばい!」と、どうやったら受け入れてもらえる方向に話を持っていけるか頭をフル稼働して考えていたからである。なにしろ「ここしかない!」という気持ちで来ている。失敗は許されないのだ。しかし、マシンガンな浅野さんからは話の主導権をなかなか奪うことができない。難しい顔をしていた私を横目にウキャウキャと話をしてくれていた遠足気分な嫁にだいぶ助けられた。
10時からはじまった面談もそんなトークをしていたらなかなか研修の話に持っていけないままあっという間に12時に。このままではまずい・・・とリストランテのオーナシェフでもある今村さんが作ってくれたおいしいパスタを難しい顔をしながら食べて、じゃあ畑に行きましょうかと横の畑に歩いて向かう途中、唐突にも浅野さんはぼそりとおっしゃった。
「あ、肝心なことを聞き忘れてたな。いつから来るの?」
えぇ〜!そ、そんなあっさり!?あさのさん!!それ、一番最初に聞くべきでしょう!!
2時間も頭フル回転でどうしたらいいか考えていたんですよ!!
もちろんそんなことをその場で言ったりはしなかったが、一気に私が遠足気分になったのはいうまでもない。
浅野さんの畑はそれはそれは凄まじかった。畑はかぼちゃのつるや食べる花などレストランのシェフたちへの新しい提案にあふれていた。それからは畑で野菜を食べさせてもらいながらとても楽しい野菜トーク。気づけばすっかり夕方になっていた。
どうやら無事に進路は決まったようだ。「昼過ぎには出れると思う」と連絡していたこの日泊めてもらう親友上垣くんに「すまん、今から出ます(夕方5時)」と電話をし、浅野さんがプレゼントしてくれた野菜と私の重大な報告を持って上垣くんの住む静岡県三島市へ向かったのだった。
私が農業をはじめるまで あとがき
(以下は閉鎖された「みんなの挑戦日記」で連載していたものを転記したものです)
第5回まで、普通のサラリーマンが縁もゆかりもない農業に興味を持ってから研修を決めるまでを書いてきました。このあとも、居心地の良かった会社の退社、研修の開始、自作栽培の開始、開業・初出荷!といくらでも書くことはあるのですが、なにせ時間がとれない。。。サラリーマンが転職を決めるまでで中入りとさせていただきます。
第1回から読んでもらうとわかるのですが、持ち前の運の良さで同僚の上垣くん、室矢シェフや澤田シェフ、中野さん、そして、浅野さんなどなど、おもしろい人と次々につながれたことで今の私があるわけです。みなさんとのご縁のおかげで私は天職に巡りあう事ができました。本当に感謝しています。
ただ、天職に巡りあうというのは毎日をただただ過ごしているだけでは難しいんだと思います。私の前職はソフトウェアエンジニア。まさか農業に転身する日が来ようとは学生時代や就職1年目の私では考えられないことです。おもしろいと思ったことに直感で取り組んでみること。それが結局は天職に巡りあう近道なのかもしれません。
と、偉そうなことを書いて将来の私にプレッシャーをかけておきます(笑)。
連載のお話を頂いたときは、物書きなんかしたことがないし難しいだろうと思いましたが、その直前にベストセラーにもなった難病患者の大野更紗さんが書いた「困ってるひと」を読んでいたことが背中を押しました。物書きとしては素人なのに自分のことをあんなにおもしろおかしく書けるなんて、、、自分もトレーニング次第では書けるようになるのかな?っていうか書けるようになりたいな!と。
結局とんでもなく時間がかかってしまい、編集者の方には多大なご迷惑をおかけしてしまいましたが、個人的には物書きの難しさやおもしろさなどもわかってとてもいい経験になりました。自分の人生の最大の転機をこうしてまとめれたことはとてもうれしいです。ありがとうございました!そして、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。
読んで下さったみなさん、最後までお付き合いいただきありがとうございました。続きは、時間ができたときに自分のブログなりで書くかもしれませんし書かないかもしれません。そのときはまたぜひお付き合いくださいね。
ここで書いたことが、おもしろいことに向けて新たな一歩を踏み出したい!と思っているみなさんの背中を押すことを期待して。
キレド クリタタカシ
http://www.kiredo.com